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第二章 幼年時代

 空海はその生涯に、膨大な数量の著作を遺している。この小論を試みるにあたって、私が最も注目したのは『即身成仏義』のなかにある次の頌(じゅ)であった。

六大(ろくだい)無碍(むげ)にして

   常に瑜伽(ゆが)なり  体

四種(ししゅ)曼荼(まんだ)

   各(おのおの)離れず       

三密加持(かぢ)すれは

   速疾に顕(あら)はる  用

重重(ぢゅうぢゅう)帝網(たいまう)なる    を即身と名づく       無碍

法然に  薩般若(さはんにゃ)を具足して

心数(真珠)心王(しんわう)

   刹塵(刹沈)に過ぎたり 

各五智無際智を具(ぐ)す

円鏡力(えんきゃうりき)の故に

   実覚智(じつかくち)なり 成仏

​序章の付記で述べたように、この深く険しい山に分け入ろうとすれば、登山経験の全くない素人の私が、いきなり頂上にとりつくわけにはいかない。私が出来ることはただ麓の道から足だけを頼りに歩いて上ることしかないのである。それは即ち、空海の生涯を時代に沿って追ってゆくという方法である。

​ 空海もまた、いきなり「即身成仏」の世界に到達したわけではあるまい。その方法として、最も基本的なことは、彼の著述を時代に沿って追ってゆくことであろう。しかしそれだけではあまりにも実感が乏しいような気がするので、彼の足跡を辿りながら実際にゆかりの土地を訪れ、当地の風に吹かれ、光を浴びながら、現在の風景を眺め、感じたことを感じたままに述べてゆきたいと思う。そのことがひいては現在に至るまでなお生き続けている、弘法大師としての空海の姿をも、浮き彫りにしてゆけるのではないかと思う。

 序章で十三仏の真言について触れたが、(十三仏以外にも多くの菩薩、如来、明王などがあるが)どの仏に魅かれるかによって、そのひとの心(精神、魂=仏教ではこれらの言葉の持つ意味は多少異なるようであるが、ここでは狭義ではなく広義で捉えたい。)のありようが垣間見られる。言うなればその仏は、そのひとの心(精神、魂)の象徴である。以前にも述べたように、空海の生涯を眺めると、彼にとって大きな意味を持つ仏は、虚空蔵菩薩、大日如来、不動尊、弥勒菩薩の四仏であると思われる。この虚空蔵から弥勒へと至る彼の精神の軌跡を辿ることこそが、その思想、哲学の深まりや広がりを知ることになるのではないだろうか。それはまた、彼がいかに密教の真髄を自らの血肉としていったかという軌跡でもある。そしてその過程において、私がこの小論にとりかかる最初の動機であった「六大」と「識」についての疑問も、次第に明らかになってくるのではないかと思う。

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 佐伯真魚(空海の幼名・以後真魚と書く。一般には「まお」と読まれているが、「まうお」「まいお」とも読む。)は讚岐國多度郡引田鄕屏風浦に生まれた。その日は七七四(寶龜五)年甲寅六月十五日と言われている。(〔贈大僧正空海和上傳記〕〔弘法大師行化記〕〔大師御行状記〕〔高野大師御廣傳〕〔塵添■嚢鈔〕〔真俗雑記〕他)但し鎌倉時代中期以前の伝記には誕生日の記載が全く無いという。

 善通寺は真魚が生まれた場所、父佐伯直田公の屋敷跡にその別名善通にちなんで建立された。現在新暦の六月十五日に御誕生会が行われているが、〔神皇正統記〕に「唐の大暦」と書かれているのを見ると、旧暦であるとも考えられる。(今年で言えば新暦の七月二十八日)いずれにせよ、この日付は唐の高僧不空三蔵の入滅した日であり、空海がその生まれ変わりであるとも言われている。

 ずっと以前から真魚が生まれた頃に善通寺に行ってみたいと思っていたが、二〇〇七年七月五日、ようやくそれが現実になった。

 空海の最初の著作である『聾瞽指帰』に「豫樟蔽日之浦」と書かれているように、境内には夥しい樟の大樹が生い茂っている。中でも「大楠」「五社明神大楠」と名づけられたものは殊の外大きく、注連縄が張られている。 東院の端に龍王社が祀られていて、池の一面は藻で蔽われているが、そこにも古い樟の樹があった。風が吹くとさわさわと葉擦れの音がする。真魚が生まれた季節はこの樟の樹が一番美しい時である。龍王社の周りの池の畔をしばらく散策する。木洩れ陽が揺れ、池の表をびっしりと蔽いつくす藻の間にも、樟の樹の春の落葉が落ちていた。広い境内を歩いている時には感じられなかったが、ここでは往時の暮らしの一端を想像することが出来る。葉擦れの音がする度に、真魚が生まれた時の屋敷内の女たちの喜びのさざめきを聞くようだ。

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 私事であるが、私もまた樟の樹には深い思い入れがある。父が五月に胃癌の手術を受けて、余命半年から一年、と宣言された頃、(本人にはずっと隠し通していたのだが。)彼が一番望んだことが自宅の庭にある樟の大樹の若葉を見たいということだった。結局バイパス手術だけを行って、彼自身は完治したと思い、一旦自宅には戻れたものの、医者も驚くほどのスピードで病状は進み、七月にはもう帰らぬ人となった。それ故に樟の樹は「生命」を考える樹でもある。  

 今回、御影堂をお参りして「戒壇めぐり」というものを経験した。お堂の横の階段を下りると暖簾のようなものが掛かっていて、その手前で、「ここから先は真っ暗になるので、左側の壁を伝ってゆっくり歩いて行って下さい。」と説明される。布を分けて中へ入ると確かに本当に真っ暗闇である。恐る恐るゆっくりと進む。曲がり角を何度か通り、ようやく眼前にうっすらと光が見えてくる。意外だったのは真っ暗闇のときよりも、光が見えてからの方が、足許が覚束なくなることだった。

 やがてぼんやりと光が漏れて来る小部屋に辿り着く。前方に大日如来が安置され、お灯明が点されている。その前に坐ると、自動的に音声が流されるようになっている。どうやら弘法大師空海の音声を合成されたものらしい。「ここに来たこと、そのこと自体が仏縁が深いということなのだ。」という。けれど私の心のどこかで、「どこか違うぞ、これは空海の声であるはずがない。」という声がする。お説教を一通り聞き終わってまた、闇の通路へ戻る。入り口付近の光が漏れているところには、諸仏や天女の絵が描かれている。(後で説明書を見ると、この両側の壁には「曼荼羅」にある三十七仏が描かれ、足元には四国八十八ヶ所の砂が敷き詰められているそうである。)

 不思議なことに、あの小部屋に入る前は、全くの「無」の暗闇だったが、大日如来に一度出会ってからは、何故か闇の中にいても、仄々と温かさを感じるような気がして安心感がある。あの声のせいではないと思いながらも、どこかで「阿頼耶識(あらやしき)」を刺激するものがあったのだろうか。

 

 善通寺を後にして、次に仏母院と海岸寺にも足を運ぶ。正式には善通寺が誕生所となっているが、江戸時代にはこの二箇所も空海の誕生した場所であるという異説が唱えられ、論争になったという。空海の生きた時代には、善通寺の辺りまで海が迫っていたということなので、そうなると勿論、現在のこの辺りは皆、海の底ということになるのだが・・・。それでも海岸寺の奥の院には産湯井があり、仏母院にも産湯塚や胞衣(えな)塚がある。

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   確かにこの奥之院は海岸寺から道を隔てて坂道をかなり登った所にあり、海の水際(みぎわ)に建っていたのかもしれないと思われる節もある。今でもお産の時は婚家先から実家に帰ることが多いことを思うと、もしこの辺りが空海の母の実家の所在とすれば、当然そこが産屋であったということにも納得がいく。当時の論争の決着として、『御理解書』なるものが嵯峨御所より下り、「善通寺は、大師の父田公の邸宅地にて、海岸寺は母玉依の別荘といい、善通寺は父の本拠なるを以って降誕の所に相違なく、海岸寺は産屋の所に相違なし」(弘法大師全集首巻〕というものであったという。村岡空師はその著書の中で、「同じ香川県観音寺市伊吹島に近年までつづいた産屋制度の風習などから見て、空海は海辺の共同の産屋で生まれ、やがて、父の家のある善通寺に帰って生長した、と考えるのが至当ではないだろうか。」とも書かれている。〔和歌森太郎編著『弘法大師空海 密教と日本人』抄録〕

 伝承の検証は専門家に任せることにして、とりあえず往時の海の傍の屋敷の雰囲気を知りたくて、海辺へと歩く。海岸寺の裏へ出ると途端に潮の匂いがする。更に堤防を越え、波打ち際まで歩いてみる。此処彼処に波に打ち上げられた貝殻が散らばっている。子供の頃に浜辺で遊ぶ真魚の姿が脳裡に浮かぶ。「貴物(とうともの)」と呼ばれた(『御遺告』)という幸せな屈託のない笑顔である。

 そこから海沿いをしばらく車で走って内陸部に戻り、弥谷(いやだに)寺へ向かう。参拝路の入り口の横の駐車場に一旦車を止めたが、時間のことを考えて、思い直してもう一度車に戻り、通常の参拝路の左側に造られている有料道路に入る。急な斜面を曲がりくねった道を上へ登ってゆくと、再び駐車場がある。そこに車を置き、百八段の階段を昇る。普段歩き慣れていない付けが回ってきて、一気に昇ることが出来ない。情けないが一段づつ数えて、半分の五十四段目で休むことにする。ここでも紫陽花が緑の中で美しさを増している。

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  昇り切ったところに大師堂があって、階段を昇り、中へ入る。お堂の奥に少年真魚が勉強したと伝えられる「獅子窟」がある。ここにも何体かの仏像が祀られている。通路の硝子戸が開かれていて、洞窟がある崖そのものが見られるようになっている。

 今は深く高い山の上にあるが、少年真魚が生きていた頃、善通寺が海の側にあったと仮定すると、おそらく真魚は海にそそり立つ断崖の中に洞窟を発見し、ひんやりしたその空気の中で、瞑想したり書物を読んだりすることを好んだのであろう。海に面した崖であったからこそ、明星の明かりを灯火として学問に親しんだという獅子崖の窓を、明星の窓と呼ぶのも頷ける。彼の秘密の場所として存在したであろうその場所を、実際に目の辺りにして、これは伝説や伝承ではなく、事実であると思われてならなかった。

 

 次に向かったのは出釈迦寺である。略縁起には次のように書かれている。

 弘法大師が真魚といわれていた七歳の時、倭斯濃山(わしのやま)の山頂に立ち、「自分は仏門に入って、多くの人々を 救いたい、この願いが叶うのなら、釈迦如来よ現れ給え。叶わぬのなら一命を捨てて、この身を諸仏に供養する」と衆生済度の願いをかけて断崖から身を投げた。その時、紫雲がたなびき釈迦如来が現れ天女が羽衣で抱き止め、釈迦如来が「一生成仏」の宣を授けた。そこで大師は本尊釈迦如来を刻み、麓に堂宇を建立して我拝師山・出釈迦寺と号して、釈迦如来の尊像を刻んで本尊とした。

 山の頂上には奥之院が建ち、その先に大師が身を投げた行場がある。その断崖を「捨身ヶ嶽(しゃいんがたけ)禅定」と呼ぶ。約三百年前までは山頂の奥之院が札所となっていたが、一九二〇(大正九)年に麓に移されたという。本堂左手の短い石段を登った所に「奥之院遥拝所」があり、ここで念仏を唱えれば、「捨身ヶ嶽禅定」に登ったのと同じご利益が得られるという。登山道の入り口には頂上まで四〇分という木の札が掛けられていた。

 「遥拝所」から仰ぎ見ると、奥之院の建物が見え、緑の中に切り立った崖の茶色の肌もはっきりと見ることが出来る。何故か聖徳太子の「捨身飼虎の図」が思い出される。伝説や伝承に見られるのは、それ以前の歴史的偉人と重ね合わせて作られた物語である。「捨身」という言葉にはもちろん自ら生命を絶つこと、という意味もあるが、仏教の言葉では修行・報恩のために身を犠牲にすること、生命を捨てて三宝を供養したり、飢えた生物のために身を投げ出したりすること、の意味であり、王侯貴族が身を三宝の奴となし、財物を寺院に寄進する場合も捨身と呼んだという。

 神童と呼ばれた真魚がこの行場で修行をしたことは事実であろう。そして一生を御仏に捧げようと決意をしたのも真実であろうと思う。『御遺告(ごゆいごう)』に「夫以吾昔得生在父母家時。生年五六之間夢常見。居坐八葉蓮花之中諸佛共語也。」(そもそも思い巡らしてみれば、私が昔生まれて、両親の家に住んでいたとき、五、六歳の頃、いつも八葉(はちよう)の蓮華(れんげ)の中に坐って、諸々の御仏たちと言葉を交わしている夢を見た。)とあるが、このような記述と偉人伝説が結びついて縁起となったものであろう。唐の高僧不空三蔵もそうであるが、真魚と聖徳太子との「符合」も随所に見出される。誕生の時からしてそうである。(〔鵝珠鈔〕〔八幡愚童訓〕)

 

 それにしても聖徳太子と四国の縁とはどのようなものなのだろう。太子は生前、親交のあった蘇我氏の領地讃岐の國をしばしば訪れていたと伝えられる。真魚が生まれた年を遡ること丸二百年、隋との国交を開き、鵜足津を遣隋使の寄港地として利用していたという。遣隋使が最初に派遣されたのは六〇〇(推古八)年のことだが、六一八(推古二六)年隋が滅亡し、唐が建った後は六三〇(舒明天皇二)年から遣唐使として引き継がれる。遣唐使についての詳しいことは後にまた述べるが、鵜足津(宇多津)は真魚の生まれた多度津からは目と鼻の先である。さまざまなエピソードを聞くこともあったであろうし、その船を目の当たりにしたこともあったかもしれない。少年真魚のきらきらと輝く瞳を思い浮かべながら、ここは一旦、現実に戻ることにしよう。

 時計を見ると既に午後四時半を過ぎていた。紫雲出山に登ることも考えていたが、思い直して満濃池を見に行くことにする。空海の事蹟の上では満濃池の灌漑はまだずっと先のことなのだが、彼を包む自然の状況を知りたくて訪れることにする。更に内陸部へと車を走らせ、琴平を過ぎ、人家が少なくなってくると坂道になる。「まんのう池」と表示が出ているところを左折すると、そのまま道なりに高台に出て、駐車場まで迷うことなく進むことが出来る。池と反対側には満濃池の守り神といわれる神野神社の鳥居があり、狛犬がこちらを見下ろしている。

 すぐ前に満濃池が広がっている。静かで広い。展望台のベンチのところで一人の若い女性が一心不乱にヴァイオリンの練習をしていた。少し歩いて角度を変えて見ると、池は全く別の表情を見せる。池の畔に佇んでいるだけで、何故か心が安らぐ思いがする。

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​ 真魚はこのような自然のなかで育ったのだ。輝く緑と溢れる水のなかで。海も山も彼にとって優しく大きい。人は自らのなかにどれだけ大自然を容れられるか、ということによって、その大きさを量れるような気がする。その意味で彼の幼少年時代は、どこまでも明るく光に充ちている。それは彼が意識するとしないとにかかわらず、大日如来の遍く照らす光明の下に生まれたということなのだろう。しかし真魚はまだ、自らがその同じ名前「遍照」と呼ばれる存在になるとは夢にも思っていない。(続く)

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