top of page
第四章 優婆塞時代

 真魚が大学寮からどこへともなく旅立った五年間がどんなものであったか、ほとんど資料は残されていない。しかし断片を繋ぎ合せて、杳として知れない彼の行方を追ってみたい。

 まず前号で述べた『三教指帰』や『御遺告』の中に、述べられている「虚空蔵求聞持法」とは何か。本来ならば加行もせずに語ることは論外であろうが、敢えて触れることをお許しいただきたい。

 「虚空蔵菩薩」は別名を虚空孕(よう)菩薩、梵語ではアカシヤ・ガルバ。「虚空を蔵とするもの」が本義である。そこからさらに「広大無限な智慧」や「広大無限の福徳」をその中に収めているものと解される。

 先にも述べたが、『三教指帰』には次のように書かれている。

  爰有一沙門。呈余虚空蔵聞持法。其経説。若人依法。          

  誦此真言一百万遍。即得一切教法文義暗記。

 ( ここにひとりの修行僧がいて、私に「虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法」を教えてくれた。この法を説いた経典によれば、「もし人が、この経典が教えるとおりに虚空蔵菩薩の真言を百万回となえたならば、ただちにすべての経典の文句を暗記し、意味内容を理解する

ことができる」という。)

 

 虚空蔵菩薩に関する経典は、インドで四世紀末ごろに成立し、何通かの翻訳がある。「求聞持法」はこの中の一つ、不空三蔵訳『大虚空蔵菩薩念誦経』に基づいて修するものであるという。虚空蔵菩薩の御真言は「のうぼう あきやしやがらばや おん ありきやまりぼり そわか」である。

 虚空蔵求聞持法は、記憶力増進の秘法で雑部密教の修法の一つであり、善無畏三蔵が伝えたと言われる。この時代には先に述べた大安寺や元興寺の道慈、善議、護命、勤操、神叡などが相承して指導していた。これらの南都の大徳らが、「求聞持法」を修していたと言われるのが吉野の比蘇山寺(地図では比曽山寺跡となっている。現在の世尊寺)である。

 勤操や、神叡、あるいはその弟子たちから学んだ真魚が、この「求聞持法」を修するために、奈良の都から最初に赴いたのがこの比蘇山寺であったという可能性も十分に考えられるのである。

 比蘇寺は五三七年(用明天皇二年)に聖徳太子によって建立された。奈良・平安・南北朝の時代には寺勢を誇ったが、やがて無住の寺となり荒廃した。江戸時代になり、河内国の大道寺の雲門即道禅師を迎え、現在の霊鷲山世尊寺と改まり、今日に至っている。

 比蘇(比曽)山寺跡は、近鉄吉野線の大和上市駅から北北西へ約2キロメートルのところに位置する。(奈良県吉野郡大淀町比曽762)周囲には吉野山をはじめ、葛城山、金剛山、竜門岳、さらには大峰山系、高野山などの修験道の名だたる山々が連なっている場所である。

 四月下旬、この比蘇山寺跡を尋ねるべく出かけることにした。前夜の強い風雨が嘘のように晴れて、気持ちの良い朝だった。阪神高速の松原JCTで阪和自動車道に入り、さらに美原JCTで南阪奈道路に入る。その道路が途切れるところから国道169号線を南に下り、さらに国道370号線を東へ進み、道から北へ少し入るとすぐに世尊寺の門が見える。神戸からは二時間半ほどの道程である。

sesonnjifouji.JPG

 山門をくぐって境内に入ると既に花を終えて葉桜の茂った木々が美しい。中門の前には左右に西塔跡と東塔跡がある。世尊寺のパンフレットによると、東塔は「聖徳太子が用明天皇のために建立され、その後鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって知ることが出来る」と書かれている。また「西塔は推古天皇が敏達天皇のために建立されたが、相次ぐ戦乱のために焼失したと今昔物語に記されている。」中門から一歩境内に入ると本堂の両脇に藤の花が見事に咲いていた。本尊は阿弥陀如来座像で、「日本書紀巻十九によると「河内の国、茅渟(ちぬの)海中に浮かぶ樟木を見る。欽明天皇は画工に命じて仏像二躯を造らしめ、今、吉野寺に祀る放光樟像なり」と記されている。次の間にも何体かの仏像が安置されていて、その中でも一際大きな仏様が十一面観音菩薩立像である。奈良時代推古天皇の頃の作だという。頭部は鎌倉期の後補であるが、体部は古様の一本彫刻である。

 実はここに来るまで、天平時代の名残りのあるものなど何も無いのだと思っていた。この寺そのものが歴史の中で、比蘇寺、吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と名を変えて来た。東塔は徳川家康によって大津の三井寺に移建され、現在国の重要文化財として残っているものの、西塔は消失している。まさかこのように古い仏像が残っているとは思いもしなかった。

 確かに樟の一木造りの阿弥陀如来は、法隆寺の救世観音のような幽かな微笑みを浮かべていらっしゃる。天平の頃、法相宗の大徳、僧神叡がこの比蘇山寺に籠り、虚空蔵求聞持法を修して、仏法を原点に立ち戻らせることを目指していたという。そしてここを中心として、「比蘇の自然(じねん)智宗(ちしゅう)」として多くの僧が修行を積んでいた。

 真魚もおそらくこの寺で虚空蔵求聞持法を学んだものと思われる。彼が不安と期待でいっぱいになりながら、この寺を初めて訪れた時もこの阿弥陀如来は微笑みを浮かべて迎えてくれたに違いない。不思議な感動に包まれながらこの比蘇山寺の中門を潜ると石楠花の花が満開だった。

 

吉野山に登る前にもう一つ、行きたい場所があった。吉野山から北北東に位置する、明日香と吉野を南北に隔てる龍門山地の主峰、龍門岳である。

この山の南麓に、平安時代に栄華を極めた龍門寺があった。白鳳期に義淵僧正が、国家安泰と藤原氏の繁栄を祈って建立し、当時隆盛を誇った神仙思想の中心であったという。義淵については以前にも元興寺に関して述べた折に少し触れているが、東大寺初代別当となる良弁が師事し、法相宗を学んだのがこの義淵であった。神叡もまた義淵の弟子であった。

 真魚が山林を巡っている時期には、既に神叡、義淵はこの世にはいない。しかし比蘇山寺、龍門寺にはそれぞれの弟子たちが教えを守り、寺を守っていたことだろう。

吉野山とは反対方向、北に向かって進み、津風呂湖の北側の山口という名の集落に入る。しばらく道なりに進むと、吉野山口神社の鳥居が見える。境内には吉野山口神社の本殿と、高鉾神社の本殿が祀られている。この高鉾神社はかつて龍門岳の山頂に祀られていたという。境内の左側(西側)の道をそのまま真直ぐ上に登ってゆく。

ryuumonnjiato35%.JPG

舗装はされているが村の集落を縫って行く細い道である。しばらくすると舗装が無くなり土の道になる。まだ行けそうではあったが、少し広い場所で車を降りて歩いて登ることにする。どこまでも杉林が鬱蒼と茂り、昼でもなお暗く湿気の多い道である。かなりの距離を歩くと、道の右側に奈良県による看板が立っている。かつて菅原道真や藤原道長も、この寺に参詣したという。

  

 今昔物語によると、龍門寺には安曇、久米の二人の仙人が籠り、修行をしていたという。安曇が仙術を体得して天に昇り、その後に続いて久米が空に昇ったところ、吉野川で女性の白い脹脛を見て神通力を失い、落下して俗人に戻ってしまったという。これが有名な久米仙人の物語である。

 真魚(空海)が大日経を発見したとされる久米寺は、聖徳太子の弟来目皇子の開基と伝えられる一方、この久米仙人が俗人に戻り、東大寺大仏殿の建立の際に、神通力を発揮し、数日で建設資材を運び集めたことによって、その褒賞として免田三十町を賜り、創建したとも言われる。しかしこうして龍門寺、比蘇山寺の位置を見ると、むしろ久米寺は米目皇子の創建であり、空海が大日経を発見したのは、久米仙人ゆかりの寺であるこの龍門寺だと考えるのが自然なのではないか、という想念が湧き上がってくる。義淵が龍蓋寺(岡寺)をはじめとする幾つかの寺院の開祖であり、法相宗直伝の智鳳の高弟であり、良弁、行基、玄方などの弟子を持つことを考えれば、彼の許に万巻の経典が集まったとしても不思議ではない。

ryuumonndakefromyoshinosmall.JPG

しかもこの神仙思想が、後に道教の中心的思想となったことを思えば、ここに来て初めて空海の最初の著作『聾瞽指帰』の役者が全て揃ったと言える。この著作の中の登場人物がすべてフィクションとはいえず、むしろこの当時、比蘇山寺には龍門寺からも、元興寺をはじめとする奈良の寺々からも、多くの人材が集まり、連日連夜、討論をしていたのかもしれない。あるいは集まったのは比蘇山寺ではなく、龍門寺の方であったかもしれない。その情景を見て、若い真魚の心は震えたに違いない。

             

 龍門岳の頂上まで登るには時間がなく、今回はあきらめて途中で林道を引き返し、吉野山へ向かう。大昔に来た時には花の盛りの頃で、渋滞する細い道を来るまで登るので、途中で堪りかねて車を降り、歩いた記憶がある。今回は吉野山観光車道で、苦もなく登ることが出来る。しかも宴のあとの吉野である。前夜の雨の後、葉桜のみずみずしさが全山を包んでいる。車道の周りにところどころシャガの花の群落があり、白い花が緑に映えていた。

 吉野山は神仏両界の聖地と言われる。当然ながら真魚が初めて吉野山に登った頃は険しい山道を踏み分けて行かなければならなかっただろうが、現在では近鉄吉野線の終着駅「吉野」のすぐ目の前「吉野千本口」からロープーウエイに乗ると「吉野山」に到着する。吉野と言えば桜を思い浮かべるが、吉野の桜は名所として、あるいは観光としての花ではない。修験道の開祖役(えん)の行者(ぎょうじゃ)が金(きん)峯(ぷ)山(せん)上において、衆生済度の為に一千日の祈願行を為し、その結果感得されたのが蔵王(ざおう)権現(ごんげん)であったと言われる。磐石を割って出現されたことから付近一帯を湧出ヶ岳と称しているという。役の行者はその姿をとどめるために、桜の木で四躰を彫刻し、一躰を山上の蔵王堂(現在の大峯山寺)に、三躰を山下の蔵王堂(金峯山寺蔵王堂)に祀り、「桜は蔵王権現の神木だから切ってはならぬ。」と里人に諭したと伝えられている。それ以後蔵王権現の信仰とともに、桜の献木が続けられ、現在に至っている。

 奥千本まで登ると僅かながら山桜が可憐な花を咲かせていた。下界で見るソメイヨシノの咲く様とは全く違う、清らかな風情である。この山の桜はすべて蔵王権現に捧げられたものということも納得できる。

kinnpujinnja35%.JPG

 金峰(きんぷ)神社に着き、本殿まで階段を昇り参拝する。その後、本殿の横の階段を下って、「義経隠れ塔」の前まで行く。源義経が頼朝方に追われてこの塔に潜んでいたことからそう呼ばれるようになったという。

もともとは「大峯奥駈(おおみねおくがけ)」修行のための塔で、新客として加わった人は皆塔の中に入れられ、先達の後に続いて真っ暗闇の中で秘歌を唱えながら堂内を巡るのだという。

 「吉野なる みやまの奥の隠れ塔 本来空(くう)の住みかなりけり オン・アビラウンケン・ソワカ 南無神変大菩薩」

唱え終わると大音響の鐘の音がして、悪気、邪気を抜いて清らかになり、山へ修行に入ってゆくのだという。

oomineokgakedou35%.JPG

 すでに午後四時を過ぎていたので、西行庵まで足を延ばすのはやめて、ほんの少し「大峯奥駈(おおみねおくがけ)」に入る石畳の道を歩いてみる。ほとんど陽も射さない暗い山奥の道である。

       

翌朝、竹林院を後にしてまず如意輪寺、後醍醐天皇御陵に行ってから、蔵王堂を訪れる。先に述べた三躰の蔵王権現が祀られている。秘仏であるため、普段は錦の幕の奥に安置され、その姿を見ることはできない。この三躰は、役小角が山上で祈りを込めていると、最初に釈迦如来が、次に千手観音が、さらに弥勒菩薩が現れ、最後に蔵王権現が出現した、と言われる。それぞれの権現像は三仏の姿を変えた尊格であると言われている。筆者が訪れた時、薄暗い本堂の、この蔵王権現の前で、一人の僧が一心に祈祷を捧げていた。紺地の金欄の垂れ幕が揺らぐのが見えたが、それは自然の風ではなく、目に見えない何者かによって、風がそよいでいるように思えた。蔵王堂は平安中期に建立されたが、度々戦乱に巻き込まれて炎上し、現在の建物は十六世紀に建造されたものである。

現在の金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山である。慶応四年(一八六八)、維新政府による神仏分離政策によって、各地の修験道の活動はほとんど途絶え、吉野山では昭和二十三年にやっと本来の修験道が甦った。昭和二十七年に金峯山修験本宗が発足したが、教団の年中行事の中でもっとも重要視されるのは「大峯奥駈」修行である。

zaoudou35%.JPG

 蔵王堂を出て目指す山上ヶ岳までおよそ十時間の登り道だという。吉野山を出発し、大峯の連山を駈け、熊野三山を巡ると前後九日、山中は七日間に及ぶという。

「虚空蔵求聞持法」を修した真魚もまた、その修行のため、山々を巡ったであろうが、それがどんなものであったか、今は知る由もない。しかしこの「大峯奥駈」修行を見ることによって、当時の修行の片鱗を思い起こすことが出来るのではないだろうか。

 

次に吉水神社、勝手神社、吉野水分(みくまり)神社と巡る。

古来、吉野山は流水の分配を司る神を祀った水分(みくまり)の山として信仰を集めて来た。大海人皇子が仏道修行のため吉野に籠ったのは吉野川河畔と推定され、その上流丹生(にう)川の川岸にある丹生川上神社には幾度も祈雨、止雨の祈願がなされている。

また先に述べた役の行者(役(えんの)小角(おづぬ))はもともと葛城山の行者であった。生年すら明らかではない彼が歴史の舞台に登場するのは『続日本紀』の文武三年(六九九)五月二十四日のことで、「妖術で人を惑わし、」「鬼神を使役して、・・・」ということを理由に、伊豆嶋への配流が記されている。また『日本霊異(りやうい)記』には金峯山と葛城山との間に橋を渡すように鬼神に命じ、一言(ひとこと)主(ぬし)大神(おおかみ)を呪文にかけ、縛ったと書かれている。これらの伝承は何を意味するのか。役小角の伊豆嶋配流の原因となったのは、宮中の呪禁師・韓国連(からくにのむらじ)広(ひろ)足(たり)の讒言(ざんげん)によるという。しかし『霊異記』では葛城山の地主神である一言主之大神が「役小角が謀反を起こそうとしている」と密告したのだという。

飛鳥や藤原京における平地の住民からすれば、葛城山を中心として山岳修行を中心とする修験者は異界とも言うべき不思議な存在であったと思われる。しかし同時に憧れと畏怖の念も抱いていたに違いない。おそらくその存在は口伝によって広まっていったことだろう。

 比蘇山寺から南へ吉野川を渡り、東南へ尾根を辿れば吉野山、金峯山に至る。おそらく「自然智宗」の修行者たちは、この山々を修行の場としていたことだろう。

 この二つの修行者たちの集団は、いつから関わりを持つことになったのであろうか。「金峯山と葛城山の間に橋を架ける」とは、役の行者を中心とした山岳宗教の集団と、「自然智宗」の修行者たちとの間に、何らかの深いつながりが出来たということなのか。

 平地の宗教とも言うべき都の南都仏教は、当然ながら政治や権力と深く結び付いていた。その上律令制が確立していく中で、為政者による管理は益々強まってゆく。宗教に対しても例外ではない。『続日本紀』の天平元年(七二九)四月三日条には、天皇の詔として次のように記されている。

 「人民の誰も、異端のことを学び、幻術を身につけ、いろいろなまじないや呪(のろ)いによって、ものの生命をそこなったり傷つけるものがあれば、首犯は斬刑に、共犯者は流刑に処する。また山林にかくれ住み、仏法を修行するといって、人を導いたり、薬をつくり、奇怪な事をしたものの罪は同罪である。」

 

 後に天武天皇となった大海人皇子は、占星術、陰陽道、道教的呪術に強い関心を持ち、かなりの心得も持っていたと考えられている。天武の死後、皇后から天皇になった持統天皇は、在位中に前後三十一回もの吉野行幸を果たしているという。吉野は水の源だけでなく、金峰神社という通り、鉱物資源にもかかわりがあったとも言われている。またこのあたりは、水銀朱の採れる地でもあり、「道教ではこの赤い色が出るところは聖なる地と考え、そこに足を踏み入れると、聖なる人に変わるのだと思われた。」この時代の国家(組織)を支えるものが、水、鉱脈、農(里)であったとすれば、この吉野には最も根幹となる重要な要素が全て揃っていたのではないだろうか。

 

 真魚は比蘇山寺で虚空蔵求聞持法を学び、ここを起点として、周辺の山々をさすらっていたのであろう。ついこの間までそこに住み、学んだ奈良の都には慣習と伝統はあっても、宗教はないと思ったに違いない。かつて子供の頃、彼が故郷で見た磐座や巨石の群れ、そこに宗教のにおいを嗅いだのかもしれない。それと同じものが比蘇山寺や龍門寺にはあると思ったのか。宗教とは何か。それがまず真魚の知るべき第一義のことだった。こう言ってしまうのは早急かもしれない。彼が探していたものは「宗教」というよりもむしろ、帰依するもの、帰依するところであった。

 しかし彼はただ教えられたことを教えられたままにすることで満足するような人間ではない。もちろん最初は、葛城山、吉野山、大峯奥駈、それらのすべてを、最初は幾人かの先達とともに、そのうちに単独でも修業に明け暮れていたのであろうと思われる。彼の特筆すべき点は、深さと同時に広さも併せ持つことであると思う。これまでに学んだ儒教と仏教、さらに道教の影響を色濃く受けている神仙思想、そのどれをも彼は納得するまで深く学んだに違いない。そして義淵や神叡などの高僧のみならず、雑密と呼ばれる数々の修験者による山岳仏教をも広く学ぼうとした。もちろんその中には役の行者に連なる修験者も入っていたに違いない。

 さらにこうして山々を巡ることによって、吉野から熊野に至るすべての山を踏破し、そればかりか、これまであまり人の踏み入れなかった地域まで、自由自在に巡ることが出来るようになったと思われる。すべての種子はこの吉野を中心とする山々で培われたものだと思われる。

 

 「山の宗教―修験道」を知りたくて、今回、アジア宗教・文化研究所代表の久保田展弘氏の著書『修験の世界』を読んでみた。少し長いが引用をすることをお許し頂きたい。

 

 「修験道は、人間と自然との呼応、いのちの響き合いのなかに練りあげられてきた宗教」だという。「生命が生命にまともに向き合う、これが修験道における行なのだ」という。

 山駈け修行の最中の掛け念仏は、次のように唱える。

「サンゲ、サンゲ六根清浄」

 「懺悔」を、仏教では「サンゲ」と読む。「修験道における山駈けの行では、山中を他界・異次空間と思うと同時に、そこには絶えず新たな水が湧き、風や雲が湧き、動物や草や樹木の命が芽吹く、生命の母胎であった。つまり〈懺悔〉は、この生命の根源ともいうべき母胎、その生命体に向かってなされるのではないのか。人事を超えた存在、超自然といってもよい、それに向かって〈サンゲ〉するのである。」

 「人間の持つ眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根(ろっこん)を清浄にして山岳へ分け入り、そして、山岳という生命の息づきによって、この六根がいよいよ清浄になってゆく。」

 これこそが後の空海の言う「六識」につながるのであろう。

 「個々が得るこの宇宙との一体感によって、個はやがて孤立をぬけ出て、生命と生命の息づきのなかに共生し、一体化してゆく。山岳における行の、この内へ深まり、そして外へ発してゆくエネルギーが持つ、いわば有機体的な生命観が、修験道の独特の世界観をも

生むことになるのである。」

 「山を駈ける。それはミクロコスモスである行者が、、マクロコスモスである山岳を駈けることにほかならない。しかも行者は、山を駈けることによって、ミクロとマクロの一体感のうちに、自身が生きている壮大な曼荼羅に気づき、それを内面化してゆく。

 修験道はこうして自然のただなかに智慧の発現を見、そこに言葉の原郷を見てきたのだ。

 奥駈け修行は、この〈真実のことば〉(真言)によって諸尊・山神・山霊に呼びかけ、そこに願い、このくり返しによって、行者のひとりひとりがそのどれとも自他ではないと思えてくる、いわば曼荼羅という世界観を実感する道程なのだ。」

 「山中は死の世界であり、他界であるという。奥駈け中の行(ぎょう)のひとつひとつは、行者という私の死であり、再生であった。もしこのとき、こころが何ものにもとらわれることのない無に立ちかえることができるならば、その瞬間こそ、それまでの私の死であり、新たな生のはじまりとなるにちがいない。」

     

 吉野は、道教が説く神仙の山とも目され、平安時代半ば頃から金峯山は弥勒菩薩が説法する弥勒浄土とも考えられた。

 吉野山の帰り、蔵王堂の裏手の大日寺の横の道を入り、黒滝村の森の中の道を天川村へ向かった。現在、吉野から熊野までの「大峯奥駈」を完全踏破する修行は数えるほどしかなく、大抵の場合、北半分の前鬼で下山してしまうか、初心者の場合は蔵王堂から車で天川村の洞川(どろがわ)まで行き、そこから直接山上ヶ岳に入峯するのだという。

 黒滝村はどこまでも森の道である。新しい道がかなり出来て走り易くなっているものの、昔ながらの車をかわすのが困難な場所もまだ残っているが、新しいトンネルを潜って行くことで、昔のつづら折りの道がかなり短縮されている。ちょうど大峯の山々に平行して走ることになる。新緑の森の道はそれでも一体いつ着くのか、と思うほど長かった。車でもこれほどかかるのだから、山中の道を山上ヶ岳まで歩くことを想像すると気が遠くなるようだ。

 最後の長いトンネル(新川合トンネル・2751m)を抜けると、ようやく「天川村総合案内所」の看板が目に付いた。いったん車を降りて、二つの目的地への道順を尋ね、案内マップを貰う。

      

 まず「天河大辨財天社」へ向かう。車で走りながら教えて貰った「赤い鳥居」を探す。しばらく行くと思いもかけない鉄橋のような赤い鳥居(?)を見出す。その手前にかかった橋を渡り、やや狭くなった道を曲がるとすぐに、その社が見えてくる。

 役の行者が蔵王権現の出現を得た時、その前に弁財天も現れ、その像を弥山(みせん)山頂に祀ったので、この神社の奥社がそこにあるという。

また大峯山山上ヶ岳山頂にある大峰山寺本堂の解体修理の際、黄金仏と共に弁財天も発掘され、山上ヶ岳は女人禁制のため、この社に祀られたという説もあるという。

 今回は立ち寄ることが出来なかったが、空海がこの社に参籠し、「阿字観」を完成したという伝承もあり、塔中寺院の一つである来迎院には碑が残されているという。

 

 次に反対方向の洞(どろ)川(がわ)温泉の方へ向かう。また2㎞ほど山の中の道を登らなければならない。やがて温泉街を右に見て、さらに町の中を進み、大峯山龍泉寺に到着する。

mizugyouba35%.JPG

 役の行者が八大龍王を祀るために草創した寺で、現在は真言宗醍醐派に属し、本尊は弥勒菩薩であり、本堂のほかに八大龍王堂がある。一九六〇年まで山上ヶ岳と同じように、この寺も女人禁制だった。境内には龍にまつわる多くの霊場がある。龍が現れたという龍穴。山上ヶ岳に入峯する修験者が出立前に必ず修行する女人禁制の水行場。この水も龍の口から出る冷泉なのだという。  

 女性の修験者は山上ヶ岳には入峯出来ないので、隣の稲村ヶ岳に登るのだという。その前の水行を行なうのは、八大龍王堂の奥にある龍王の瀧と不動尊の行場である。

ryuuounotakifoudousonn35%.JPG

 「大峯奥駈」の世界は「弥勒」の世界でもあった。過去世ではなく、未来の世界なのである。奥千本に立つ一本の白山桜の木は、蔵王権現への散華であるだけでなく、そのまま「弥勒」の姿であった。そして「弥勒」は至るところに存在するのだ。

 とすれば「死の世界」と思われた山中は、実は「生の世界」であるに違いない。新たな生まれ変わり、光に溢れた世界への予感。一歩一歩踏みしめる度に、その耀きと喜びは、自らの内に溢れて来るに違いない。

 

 吉野から熊野に至る大峰山系を縦の線とすると、空海の独自とも言うべき横の線が、龍門岳から大塔村、野迫村を経て高野に至る道である。

 今回は時間がなく、「すずかけの道」と名づけられている大峯高野街道へは行けなかったが、近いうちにぜひ歩いてみたいと思っている。

 

 真魚(空海)は神や仏のみならず、「人間存在」そのものを探ろうとした。それはこの山野を彷徨した時期に、大方の哲学として彼のなかに宿ったものであろう。

真魚は確かめたかったに違いない。「大峯奥駈」で、あるいは比蘇山寺や龍門岳で会得した「虚空蔵求聞持法」が、果たして独力で得られるものかどうか、再度果たせるものなのかどうか。

 彼の場合はいつもそうだった。自らの思想、哲学を考える上で、必ずその裏付け、保証となるものを得ようとする。それゆえに、ここから彼の更に長い旅が始まる。

 彼が求めた「帰依するもの」「帰依するところ」(宗教)は、彼ひとりだけでなく、すべての人にとってもそうでなければならなかった。個々の人間存在ひとりひとりが、それぞれの遣り方で、それぞれにふさわしい帰依の仕方をみつける方策、方途を模索した。必ずしも一つの遣り方でなくてもいい。一つの決められた組織や枠の中の順序がなくても目的に到達できる。そのために人から人へ、師から弟子へという形をとった。それと同時に逆に順序や枠がないと会得出来ない人のためには、マニュアルとしての行も用意した。

哲学を欲する人には哲学を、現世利益を求める人には現世利益を、しかしそれでいてなお、絶対の帰依が叶うものでなければならなかった。それゆえにこそ「大我」「大欲」でなければならなかったのだ。さらにそれゆえにこそ、彼自身もまた「遍照金剛」でなければならなかったのだ。

そこに至るまでの道、大和や紀伊の山々から、彼の故郷の四国の山々を巡り、さらに諸国を巡り、遂には唐へとつながる道。膨大な書物と、気の遠くなるような行(ぎょう)の積み重ね。彼岸と此岸、菩提と衆生に同時に向かう彼の特質を、この時の真魚は未だ気づいていない。しかしそれでもなお、振り子のように相反するものの間で揺れ動き、最後にはそのパラドックスをも統合してしまう彼の才能は既に発揮されようとしていたのだ。

すなわち山を駈け続けた日々を経て、彼は一冊の書物を完成しようとしていた。          

 その書物が史実に現れるのは延暦十六年十二月(蠟月)一日のことであった。しかし今暫くはまだ修行を続ける真魚の足取りを追ってゆこうと思う。ただしその書物、『聾瞽指帰』及びその改訂版と思われる『三教指帰』のなかに垣間見られる彼の姿を・・・・。

 

『三教指帰巻上 并序』には次のように書かれている。

 

 爰有一沙門呈余虚空蔵聞持法。其経説。若人依法。誦此真言一百万遍。即得一切教法文義暗記。於爰。信大聖之誠言。望悲■於鑚燧。躋攀阿國大瀧嶽。勤念土州室戸崎。谷不惜響。明星来影。遂乃。朝市榮華念■厭之。巌藪煙霞日夕飢之。看軽肥流水。則電幻之歎忽起。見支離懸鶉。則因果之哀不休。觸目勤我。誰能係風。

 

 四月の半ば、私もまた「吹く風を繋ぎ止められないように」、ここに書かれている二つの目的地に向かって旅立った。

 

 その日は大雨だった。淡路島を突っ切って四国に渡る際に、明石海峡大橋を通る時も、鳴門大橋を走る時も、見えているのは橋梁の一番上の部分だけで、あとはすっぽりと霧に包まれていた。前に走る車のテールランプが見えるとほっとするほどに、一台きりで走る時はそのまま海のなかに落ちてゆくのではないかと不安だった。

 鳴門ICを下りるとやっと普通の雨の中を走る状態になった。鳴門市街から徳島市街を南北に国道11号線で走り抜ける。そのまま55号線に入り、小松島、阿南市を過ぎてから内陸部に向かって少し行くと鷲敷町に入る。那賀川沿いの県道を遡って走ると、麓から太龍山山上に向かって掛けられた長いロープーウエイが見えてくる。

 ロープーウエイの駅は「鷲の里」という「道の駅」の中にあって、発車時刻まで間があったので暫くうろうろしていたが、一m以上もある大きな杉の木材や、大鷲の剥製が飾られていて、太龍山の山の深さを物語っている。舎心ヶ嶽と隣の山犬ヶ嶽を越えて本堂下の山頂駅に着く。中から見える風景は壮大で、麓から1号支柱までは鷲敷ラインを、1号支柱から2号支柱までは剣山山系を、2号支柱から山頂駅までは紀伊水道・橘湾と移り変わるとパンフレットに書かれているが、ここでも辺り一面は霧に覆われ、ごく近くの木々や、ところどころ咲いているミヤマツツジの鮮やかな色だけが窓から見えるだけである。山の中腹に来た時、同乗のガイドの説明があった。平成四年秋、大師ご入山一二〇〇年とロープーウエイ開通を記念して、求聞持修行大師像が建立されたという。

 霧の向こうにうっすらと黒い横向きの像が見える。さらに説明は続く。そこから少し下のオオカミの像は、かつてこの辺りにはオオカミが棲息していたという証しなのだという。今ではその山の名前だけがそのことを物語っている。昔は四国八十八か所の中でも指折りの難所とされていたが、十分ほどすると山頂駅に到着する。駅の周りには八重桜とミヤマツツジが雨の中で鮮やかさを増している。

 太龍嶽の山頂近くに建立された太龍寺は「西の高野」と呼ばれている。延暦12年(七九三)、十九歳の空海(真魚)が山上で百日間に亘り、「虚空蔵求聞持法」を修法し、その後、桓武天皇の命を受けた阿波国司藤原朝臣文山が伽藍整備を行った。

    

 山頂駅のすぐ前に本堂まで登る石段がある。その向かって右側には坂の道があるので、そちらを歩くことにした。辺りには樹齢数百年といわれる老杉が茂っている。カーブする道を登りしばらくすると階段を登ったところと合流する。そこはちょうど手水舎のある場所だった。そこからさらに石段を登ると本堂の前に出る。

太龍寺1.JPG

 その左手に少し曲がった道があって、突き当たりに求聞持堂がある。かつて若き日のの空海が「虚空蔵求聞持法」の修行をしたところと言われている。今もここで修行が行われているのだろうか。木戸は閉じられたままであった。

太龍寺求聞持堂1.JPG

 元来た道を戻り、本堂へと歩く。阿波藩主蜂須賀耕の命により嘉永五年(1852)に建立された。本尊は虚空蔵菩薩。弘法大師の御作で、毎年一月十二日の初会式に開帳される。

太龍寺大師堂.JPG

 雨のせいかほとんど人通りもなく、杉の巨木に包まれて、山自体が眠っているかのようだった。そのなかにいると、ここが千年余りも昔の山の中なのか、現代なのかさえ分からなくなってくる。そこから少し坂道を下ってゆくと鐘楼門がある。一人の僧と女性が、鐘を撞いているところだった。その後で私も鐘を撞かせて頂いた。高くもなく低くもなく、鐘の音は澄んだ音色で雨に包まれた山の懐に広がっていった。鐘楼門から下る階段の下には本坊が見えた。ここでもミヤマツツジと赤い椿が鮮やかだった。

 本坊(持仏堂)と護摩堂は共に、明治二十七(一八九四)年に火災により焼失し、再建されて現在にいたっている。本坊の正面大廊下天井には、四条派の画家竹村松嶺による「龍」が描かれていて、「龍天井」と呼ばれている。

 護摩堂の本尊の不動明王は中興の祖、興教大師の作である。ここでは毎日護摩供を修法し、「太龍寺の日護摩」として、古来より信仰を集めている。

その隣の六角経蔵には版木印刷の一切経が収められている。以前の一切経は三代将軍徳川家光の寄進によるものであったが、やはり火災により焼失し、現在の一切経及び経蔵は、安政三(一八五六)年に収蔵されたものであるという。

 かつて空海(真魚)がこの山の中で修行した時、これらの建物の内、どれくらいの規模がこの山上にあったのだろうか。吉野の龍門寺は跡かたもなく消え去っていたが、太龍寺は難所といわれる険しい山の上にあったからこそ、守られたものも多かったに違いない。龍門寺で学んだことを吉野で実践した彼は、ここでもまた「虚空蔵求聞持法」を学んだ太龍寺のすぐ南の舎心ヶ嶽で、さらに修行を続けたのであろう。すぐ隣の山犬ヶ嶽から聞こえてくる狼の咆哮をどんな思いで聞いていたのだろうか。

太龍寺本坊庭園.JPG

 本坊の前の庭園の片隅に一本の枝垂れ桜が咲いていた。折からの大雨に、苔むした大地は、さながら大河のように、あるいは海のように水を湛え、その真っ只中に黒い幹の桜は立ち続けていた。苔の上に花びらが重ね散って、水の流れを飾っていた。その佇まいをしばらくじっと見ていると、ふとこの光景そのものが密教のようだとなぜか思われた。「時」の流れからも「場」の限定からも、超越しているように見えた。今、ここにあって、美しいと思うこと、それ自体が「限られたもの」を超えることなのかもしれない。限界に囲繞されている状態が現実そのものだとすれば、その現実の裏に、あるいは奥にこそ、現実を超えたものが常住するに違いない。そんなことを思いながら、再び元来た道を辿って、ロープーウエイの山頂駅に戻った。そこはもう山上であるにもかかわらず、現実の世界だった。

 

 

 麓の駐車場に停めてあった車に乗り、阿南の海岸沿いの道に戻り、再び南に向かう。ここからは土佐街道、国道55号線をひたすら走る。時間があれば海亀で有名な日和佐の海を見たいとも思っていたが、太龍寺でロープーウエイの待ち合わせなどで思ったよりも時間を取ってしまったので、そのまま通り過ぎる。

 牟岐を過ぎるともうずっと海沿いの道になる。雨はもう小降りになっていた。宍喰を過ぎた頃からところどころ、海辺に白いものが見えた。近くまで来るとそれが海霧だということが分かった。といってもそれは認識として分かったというだけで、実際には「あっ、雲がそこにいる。」という感じだったのだが……。

 日暮れる前に何とか今夜の宿に到着し、長い一日が終わった。悪天候のせいでさすがに疲れ、一刻も早く休みたかったが、とりあえず夕食を摂り、ついでにフロントに寄り明日の日の出の時間を確認する。

 翌朝、おそらくは無理だろうと思いながら、早朝五時前に起きて、ホテルから五分ほどの御蔵洞(御厨人窟ともいう)まで歩いて行く。もっと暗いかと思っていたが、思いのほか明るいので驚く。洞窟は一つなのだと思っていたが、並んで二つあって、一つは生活のために、もう一つは修行のために使われていたのだという。前者が「神明窟」で、後者が御蔵洞(御厨人窟)である。その前で日の出の時間、五時三十八分までしばらく待つ。辺りはどんよりした雲に覆われ、全くの曇り空だったので、ほぼ無理だとあきらめてはいたものの、それでも心の奥底にはほんの僅かな期待感がある。

 やがてほんのり明るんだ水平線から真っ赤な太陽の天辺が見えてきた。「あっ、出た!」と思わず叫んでしまう。けれどそれはほんの一瞬だった。辛うじて赤い円形を確認できたと思った途端、その天辺は再び厚い鼠色の雲の中へ消えて行った。

室戸岬御蔵洞日の出.JPG

 

 朝焼けのラインはまだ見えていたので、洞窟の中から見てみようと思い、御蔵洞の中へ入ろうとすると、暗闇の中に一人の男が蹲っていた。いきなりだったので驚いて立ち止まると、その人は「私はモデルなんですよ。」と訳のわからないことを言う。「おはようございます。」と答えにならない言葉をかけて、そのままさらに奥へと進む。すると一番奥にもう一人、カメラを三脚に取り付けている人がいた。ようやく先程の言葉に納得する。二人は先に洞窟から出て行ったが、通りがけにカメラを持った人が呟くように言った。「何回通っていても、なかなか思うようには撮れないものですよ。」

 確かに今朝、この日の出が見られるとは思ってもみなかった。昨日の天候がもし今日だったら、あるいは今日日の出の時刻が少しずれていたら、……そう考えると日常の一つ一つの事象がすべて不思議という外はない。

 真魚もまた、この日の出を見たであろう。この洞窟に、あるいは他にもこの辺りにはいくつかの洞窟があるのだが、そこからのいくつもの夜明けを見続けていただろう。しかしそれは、毎日太陽の姿を見ることができるということではない。

室戸岬御蔵洞.jpg

 毎日東の空から必ず昇る太陽でさえもそうである。もう一度『三教指帰』を見てみよう。

 「勤念土州室戸崎。谷不惜響。明星来影。」

 ここで述べられているのは太陽ではない。「明星」すなわち金星である。金星は地球よりも太陽に近く、太陽より48度以上離れないので、真夜中の空に見えることはなく、日没後の西空、または日の出前の東空に見えるのみである。夕空に見える時は「宵の明星」、暁の空に見える時は「明の明星」と呼ばれる。

 もちろん『御遺告』に

 

土左室生門崎寂暫。心觀明星入口。虚空蔵光明照来顯菩薩之威現佛法之無二。

(心中に(虚空蔵菩薩を)観想したとき、(虚空蔵の象徴〈三昧耶形〉である)明星が、(修行の成就の証として)口中にはいった。そして、虚空蔵菩薩から発せられる光明の輝きは、菩薩の威力を顕わし、仏の教えの比類のないことを示した。)

 

とあるように、明星は「象徴」として用いられているに違いない。けれど同時に空海の表現ではいつもただ単に観念だけの表現はなく、必ず実際に経験として述べられていることから、室戸崎でもまた実際に明星を見たであろうと考えられる。私が前日の豪雨から、とても見ることができないと思っていた日の出を見た時でさえ、あのように感動したのである。ましてや「明星」を見た真魚は身が震えるほどの感動を覚えたに違いない。

 金星は地球軌道のすぐ内側、0.723天文単位のところをほとんど完全な円を描いて回る。その公転周期は224.7日、その時点周期は243日、しかも他の惑星と違って、公転とは逆向きに回っている。対太陽自転周期、すなわち昼夜が巡る周期は116.7日である。天文学的にこれらのデータをもとに室戸岬の御蔵洞の辺りに「明星」として現れる時点と、真魚が十九歳の頃の年代を見比べてみると、彼がこの洞窟から明星を見た時がいつだったか、が判るということになる。しかしこれは私のなすべきことではないので、これ以上は触れない。もし天文学的な知識があって、空海に興味がある方があるならば、是非検証して頂きたいと思う。

            

 御蔵洞を出た時、未だ午前六時前だったので、しばらく室戸岬を散策することにした。道路から海岸の間に遊歩道が造られていて、海の水際を歩けるようになっている。ビシャゴ巖、エボシ巖など大きな斑レイ岩の貫入岩体が聳えている。真魚がここで修行を重ねての時代は御蔵洞の前まで海が来ていたようである

室戸岬1.JPG

 御蔵洞のすぐ向かいの海岸沿いには「弘法大師行水の池」と言われている小さな池がある。この辺りには環形動物のヤッコカンザシの生痕があり、その生活の跡から過去の海水準を知ることが出来るという。遊歩道沿いにはトベラ、ウバメガシなどの常緑樹が茂っている。ところどころ白い花も咲いている。           

室戸岬9.JPG

  さらに歩いて行くと根元から幹が幾つにも分かれ枝を張ったアコウの林が続く。足元のところどころに小さな川のような水が流れ、アメンボや水すましが目に付いた。どうやらこの流れは海水ではなく真水らしい。そういえば洞窟の中にいた時、ひっきりなしに上から水が滴り落ちていた。その水が流れて来ているとしたら、確かにこの辺りは海水の池と、真水の池が二つながらにあっても不思議ではない。こんなに荒磯が近いのに、驚くほど植生が豊かなのもそのせいかもしれない。ここは生命の宝庫なのだ。

 「百聞は一見に如かず」というが、ここに来るまでは真魚がなぜ太龍寺や室戸岬に来なければならなかったか、という必然性を実感としては感じられなかった。けれどこの太平洋を眼前にした海辺に立って初めて、ここでなければ感じられない地球の鼓動のようなものを味わうことができた。室戸岬の沖は海洋プレートが大陸プレートに潜り込むところなのだという。その分、大きな地殻変動が何度も大地震を引き起こしてきたが、それが海岸の造形を積み重ねてきた。波しぶきもその轟も、すべてが豪快で大きい。

 吉野の山は確かに深く峻烈であったが、この広がり、大きさを前にしては比較にはならない。海はどこまでも広く、水平線は弧を描く。空もまたどこまでも広がっている。ここでこそ、「真魚」は初めて「空海」として生まれ変わったのである。

 

 一時間ほど遊歩道を歩き、一旦朝食を摂りに宿泊先に戻り、改めて御蔵洞から少し先の入り口から遍路道を歩いてみる。しばらく登っていくと「一夜建立の岩屋」と名付けられた岩屋がある。ここでも空海は生活していたという。その前にはクワズイモが茂っている。この大きな葉は以前奄美大島に行った時によく見かけた植物である。イモを所望された里人が「硬くて食べられない」と断った

ため、空海が本当に食べられないようにしたという伝説があるという。

室戸岬一夜建立の岩屋3.JPG

 さらにそのすぐ先には「捻り岩」と名付けられた大きな岩がある。これもまた異常気象を防ぐために祈った空海の念力で岩がねじれたと説明されている。この辺り一帯にはこうした空海にまつわる多くの伝説や奇譚が溢れている。

 遍路道を登り切ると最御崎寺である。ここもまた、かつては太龍寺と同じように険しい山道を登らなければ辿りつけない場所であった。しかし今では室戸スカイラインが山を横切り、山門のすぐ前に車で行くことができる。ここもまた本尊は虚空蔵菩薩である。仁王門と反対側の道を下ってゆくと、白く大きな室戸岬灯台が見えてくる。灯台への道には未だに名残の桜が咲いていた。その道に薄紫の花が落ちているので、見上げると藤の花も満開だった。石垣にはタンポポや菫の花もあちらこちらに咲いていた。

 千三百年も前に生きた空海を尋ねてこうして歩いてみると、なぜか遍路道としての札所、寺院を巡るだけでは分からないことがあるような気がする。彼はひたすら何かを求めて歩いた。己の救済のためか。あるいは己を賭して悔いないものを探すためか。もしかするとそれさえも分からないままなのか……。確かに最初はそうであったに違いない。けれどどこかの時点で、自らの内で徐々に、あるいはドラスティックに変わっていったこともあったに違いない。そのいかなる時でも彼にとってどうしても切り離せないものは自然であった。もっというならば宇宙を感じられる場所、対象とでもいおうか。室戸岬の果てに立って、このことを改めて深く感じた。やはり来てよかった、来なければ決してわからなかったとも思った。

私自身、何のためにこの旅を続けているのか、と問うてみると、それは空海の伝記を書くためでも宗教論を書くためでもない。自分の中の宇宙や自然に出会うためなのだと今回はっきり判ったような気がする。これまで「仏性」とは慈悲や、施しや、救いにつながるものだと思っていた。しかしそうではない。「仏性」そのものが大宇宙なのだ。空海にとってはこの荒れ狂う大自然こそが必要だったのだ。吉野のような完成された自然だけでなく、荒削りのままの猛々しい岩や波しぶきが、あるいは太龍山舎心ヶ嶽の狼の咆哮が聞こえる真の闇が……。そこでは山が生きていた。海が生きていた。生きとし生けるものをすべて抱えて……。

 本当はこの旅でさらに石鎚山にまで足を延ばしたかったのだが、今回は時間の都合がつかず、次の機会に回すことにした。ここで一旦旅から目を反らし、『聾瞽指帰』及び『三教指帰』に戻ることにする。

 『定本弘法大師全集』首巻の「弘法大師略年譜」によると、延暦十(七九一)年に 「この頃、一沙門(一説に勤操[御遺告])から「虚空蔵求聞持法」を受け、以後、阿波国大滝岳、土佐国室戸崎などで勤念修行す[指帰、続後紀四]」と書かれている。その後五年間は何も記載がなく、延暦十六(七九七)年「12・1『聾瞽指帰』一巻を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論ず[指帰]。のち『三教指帰』と改題し、序文と巻末の「十韻の詩」を書き改める。」と記載されている。

 この空白の五年間に二つの書物は準備されたのである。空海の生涯を辿ると、その生涯のエポックとなる時点の前には、必ず空白の時間や歳月が存在する。大樹が葉を茂らせ、花を咲かせ、光を浴びて立ち続けるためには、目に見えない地下の奥に深く伸び、あるいは捻れ、絡まりあった壮大な根が張っているように……。

 

 『聾瞽指帰』は次のような言葉でその幕を開ける。

 

  夫烈飈倐起。■従虎嘯。暴雨■■。■待兔離。是以。■丹鳳翔必有由。蜿■赤龍感緣来格。是故。詩人。或倍宴樂以奏娯意。或懐患吟而賦憂心。視賢能以馳褒讃。愍愚惡而飛■箴。然人有工拙。詞有妍嗤。〈中略〉 余恨。髙志妙辧。妄乖雅製。〈中略〉將詠溺■之青柳躓一言之莫中。欲賦■■之白雪纏八病之有制。如是嘆息。非只一二。

〈中略〉晝夜勤意。旦暮策憶。故■彼所之■文。仰此言志之義。〈中略〉 仰望。若有握巻解綺之人。先砥斤斧。破弃瓦礫。面紙■文之士。宿韞蘭蓀。必代葷■。盖乖此制。科罪有差。于時。平朝御宇。〈後略〉

 

(そもそも、猛烈なつむじ風は突然に発生する。発生することはがえるようなものである。はげしい雨はあふれ流れて大雨になる。大雨になることは(月)がをはなれるのでわかる。これをみてもわかるように、悠々と赤いが空を高く飛ぶことにもかならず理由がある。くねくねと進む赤い龍も、自然の因縁を感じてやってくる。このようなわけで、詩人は、あるときは祝宴の音楽にあわせて喜びの

歌をみ、あるときは悲しみの心をいだいて憂いの心を詩に作る。賢くて才能のある人を見てはめことばをささげ、愚かで悪いことをする人を哀れんでは戒めのことばをあたえる。

 

  ところが、人間には、(ものをつくるのに)上手と下手がある。詩文にも、すっき

りと美しいものと醜いものがある。〈中略〉

 わたしは、遺憾ながら、高くすぐれた志も絶妙な弁舌もなくて、みだりにやかな文章にそむくことばかりである。〈中 略〉まさに沈んでいきそうな青い柳をっても、一つの文字が象徴する全体の意味のなかにころびそうで、しんしんと降る白い雪を歌っても、詩作上の忌むべき八つの制約にまといつかれようとする。このような溜息はただの一つや二つではない。

 〈中略〉昼も夜も心をせきたて、朝夕にその気持をつきうごかす。だからそうした心のおもむく文章によって、こうしたを言おうとする意義をもとめるわけである。

 〈中略〉どうか望みたいことは、もしもこの書物をとって文句をひもとく人があれば、まずやをいで瓦や小石をこわしすて、紙面に注目して文章をみられる人は、まえもって蘭やの香りでつつんで、かならずやのような臭くて有害な草ととりかえていただきたい。それにしてもこのようにして文章作法にそむくことは、その罪状にもいろいろな差異があるであろう。)〈後略〉

 

空海の真筆とされる『聾瞽指帰』は、今も金剛峯寺に遺されている。しかし『定本 弘法大師全集 第七巻』の解説にも書かれている通り、「現存『聾瞽指帰』が真蹟本であるか否かということについて確たる研究はない。」そのことをここでは斟酌しないことにして論を進めようと思う。同全集首巻に収められている写真を見ると、まさに一気呵成に書き上げられたといった風情の筆跡である。その流れるような筆の勢いと同じように、文体もまた対句を配し、引用も駆使して、処女作としての衒いも溢れている。その意味で『聾瞽指帰』は空海の数ある著作のなかで、唯一の肉声とも言うべき作品である。以前に善通寺を訪れ、戒壇巡りをした時に、肖像などから骨格を割り出して合成した「空海の声」と称するものを聞いたが、未だにそれが本当に彼の声とは思えない。むしろこの『聾瞽指帰』を読むときにこそ、声なき声として彼の肉声が迫ってくる。

 

村岡空師が『弘法大師空海全集 第六巻』(筑摩書房発行)の解説にその成立事情を、推測もまじえて詳しく書かれているのがとても興味深い。それによると

 

空海にとって『聾瞽指帰』とは、その書名の意味するものは、『序註』上に「聾瞽は迷惑の人なり。指帰はの人なり。指帰引接の人は、聾瞽迷惑の人をするときは、すなはち全体にして法喩にあらず」とあるように、三界をさまようわれわれに対して、よりよい仏道への指針をさし示そうと意図したものであり、その総体は一篇の詩劇である。

 

と述べられ、この書の数奇な変遷についても書かれている。

 

  「仮名乞児論」によれば、「より発してのにき、(略)兎角がに到つてのにり立てり」とあるようにである。そうして厳格な叔父である大足に対して、本書を提出し、正式の出家宣言をおこなった。ここに、いわゆる謎の七年間がはじまったのであった。

  これ以後、本書は離宮の嵯峨天皇に献上されたものと思われる。このようにして本書は嵯峨離宮、御所、大覚寺にと秘蔵、伝来されるにいたったのであるが、そののちの数奇な変遷に関しては、本書の奥書に、夢想国師のつぎのような添書が付されている。

    この書は、これ弘法大師のなり。初には『聾瞽指帰』と名づく。後改めて『三教指帰』と名づく。この本はすなはち大師の真筆なり。しかるに草本なるが故に世の伝本と少異のみ。貞和秋、大覚寺親王寛尊の時、これを給ひ、に秘在す。く他処にすことをえず。   沙門疎石印

 

一方、『三教指帰』は次のような言葉で始まる。

 

文之起。必有由。天朗則垂象。人感則含筆。是故。鱗卦聃篇。周詩楚賦。動乎中。書于紙。雖云凡聖殊貫。古今異時。人之寫憤。何不言志。

(人が文章を書くのには必ず理由がある。天が晴れていると、天文のいろいろの現象があらわれるし、人間が感動すると、筆をとって文章を書く。そのようにのや老師の『道徳経』、『詩経』や『』に見える文章も、人の感動を紙に書きあらわしたものである。聖人とわれわれ凡人とでは人間がちがい、昔と今とでは時がちがっているけれども、私は私なりに、煩悶を除くために心に思うことを言わずにいられようか。)

 

 両者を比べると明らかに書く意図が違っているように見える。前者は内発的な衝動が起点になっている。これ以上内部に抑えてはおけないマグマのようなものが噴き上がり、書かずにはいられない、書きたいから書いた、と言わんばかりの畳みかけるような表現が続く。後者はむしろ読者を意識して、簡潔明瞭に、理路整然と説こうとしている。

 この二書の成立は共に延暦十六年十二月と書かれているが、『聾瞽指帰』が原作で、『三教指帰』はそれを後に書き改めたものと考えられている。松長有慶師は「空海の生涯・思想と『三教指帰』」(『空海 三教指帰ほか』福永光司 訳/中央公論新社)のなかで、「空海に対する社会的な評価が確立し、思想的にも包摂の理念を鮮明化した弘仁の半ば以降、天長にかけての可能性が高い。」と述べておられる。

 ついでながらこの論を引用させて頂いて『三教指帰』の概略を書いておきたい。

 『三教指帰』三巻のうち、上巻は序と亀毛先生の意見、中巻は虚亡隠士の見解、下巻は仮名乞児の教説と全体の総括にあたる十韻の詩からなる。」「上巻は儒教の教えの披瀝」であり、「中巻は道教の立場を叙述」し、「下巻は乞食のなりをしたの仮名乞児が登場」し、「儒道仏の三教の要旨を、十韻の詩にまとめ、それらの頂点に立つ仏教のすばらしさを唄いあげてこの戯曲を閉じる。」

 「仮名乞児の説く仏教の教えは、仏教の基本的な教説をほとんど網羅しているといってよい。無常観の強調などはのちの空海の生死観と密接に繋がる。一方、当然のことながら、まだ密教に関しては触れられてはいない。」

 

 仮名乞児論の中に次のような記載がある。

 

是汝与吾。従无始来。更生代死。轉變无常。何有決定州縣親等。然頃日間。刹那。幻住於南閻浮提陽谷。輪王所化之下。玉藻所歸之嶋。豫樟蔽日之浦。未就所思。忽経三八春秋也。

(というのは、あなたとわたしは始めのない昔から、代る代る生まれかわり死にかわって転変し、常住でない。だから固定した州とか県とか親族はないのだ。しかしながら、近ごろのことをいえば、しばらくの間、幻のように(この世界)の中の日出づる国日本の天皇の治下にあるよるの島、が太陽をさえぎるの、屏風が浦(すなわち弘

  法大師空海の故郷)に住んでいる。思う人(仏)の所へもまだ行けないうちに、早くも二十四年を過ぎてしまった。)

 

このことと、序文の末尾に「于時延暦十六年臘月之一日也」とあるのと合わせて、『三教指帰』の成立は延暦十六年、二十四歳の時に、讃岐国の多度郡の生家で制作されたことは疑義がないとされている。

 

 これら二書のなかで、筆者が注目したことが二点あった。その一つは容赦のない「死」についての描写である。すなわち「无常之賦」及び「受報之詞」である。こ

こに描かれているのは決して観念ではない。おそらく各地を巡っているうちに、彼はさまざまな光景を見たであろう。行き倒れの人、野晒の屍、……、ここに記された描写よりももっと悲惨で、おぞましい状景もあったに違いない。

 また憶測にすぎないが、この書を執筆した前後に空海は家族との死別も経験しているのではないかと筆者は想像する。

 

 老親皤■臨近冥壌。此余頑■反哺无由。居諸如矢迫彼短壽。家産澆■■屋向傾。二兄重逝■行汍瀾。九族倶匱一心潺■。起慷慨之思以日継月。興悽愴之痛従旦達夕。嗟呼悲哉。 

   (老いた両親はすでに墓にちかづいている。私が愚鈍なた

めに、父母の哺乳の恩を返す方法がない。日月が遠くすぎ

去って親の短い命は残り少ない。家の財産は乏しく、壁や

屋根は傾きかけている。私の二人の兄がつぎつぎに亡くなっ

たので、涙がいくすじも流れる。一族の数が減っていくの

で、私は心で泣いている。来る日も来る日も慨嘆の思いに

が引き裂かれる思いです。何と悲しいことでしょう。)

 

『空海 三教指帰ほか』の福永光司訳註では、これらは『文選』『詩経』『史記』『荀子』などからの引用と説明されている。確かに修辞上はこれらの引用によって表現されているのだが、なぜかここに述べられていることは、彼自身の実際の経験であり、実感であるような気がしてならない。

 蛇足ではあるが、私たちの日常から「死」が退場してからどれ位の時が経っただろうか。かつて「死」は日常の中にあった。生まれ、死ぬことが当たり前のことであり、自然であった頃、日常を生きる家の中で、人は死んでいった。「死」を経験し、「死」を実感することによって、生きているものは皆、必ず死ぬということを、誰しもが知ることになった。思えばこのことこそ、老いて死にゆくものが、なお生き続けなければならない者へ遺すことができる、最大の教えだったともいえる。「死」を見つめることで初めて、「生」の尊さを知ることができたのである。日常からの「死」の欠落が、本来の人間の生の営みをも損なっていったような気がする。 

 

さて本論に戻ろう。私が刮目したもう一つは次のような文言である。

 

 慈悲聖帝。示終之日。丁寧顧命於補處儲君。舊徳■殊等。授印璽於慈尊。教撫民於攝臣。是以。大臣文殊迦葉等。班芳檄於諸州。告即位於衆庶。是故。余忽承檄旨。秣馬

脂車。装捒取道。不論陰陽。向都史京。

(そういうわけで、大慈悲の聖なる帝王である仏世尊は、入滅の日に、次に仏と成るはずの(すなわちの)菩薩や前に七仏の師であった菩薩に丁寧に遺言して、後継者としてのを弥勒菩薩に授け、衆生済度のことを仏弟子らに教えた。そこで、仏国の大臣に当る上足の文殊菩薩やが仏の告文を諸州に配分し、当来仏・弥勒の即位を一般民衆に宣言した。

  そこで私は告文の趣旨をうけたまわって、馬にをやり、馬車にをさし、旅支度をととのえて仏道に入り、昼夜の別なく弥勒の浄土に向かうところです。)

 

 実は私は勝手な思い込みから、空海が特別に帰依した三仏を想定していた。すなわち虚空蔵菩薩、不動明王、弥勒菩薩の三尊である。そしてそれが年代と共に推移していったのだと思っていた。ところがそうではなく、「虚空蔵求聞持法」を修していた頃から、既に弥勒菩薩の常住する「兜率天に向かう」という明確な目的を持っていたのである。すなわちこの『聾瞽指帰』あるい

は『三教指帰』を書いた時には既に、弥勒菩薩についての詳細な知識を持っていたということになる。

 確かに仏教伝来(日本書紀によると五五二年、元興寺縁起によると五三八年、一説には遡って継体天皇時代、五二二年私伝説もある。)以来、数々の仏が招来された。那智の大滝で有名な青岸渡寺の開基者裸形上人は、仁徳天皇時代に熊野の海岸に漂着し、那智の大滝に打たれる千日間の修行中に滝壺の中に黄金の丈八寸の「観音菩薩」の出現を見たとされるし、欽明天皇時代五五二年に百済の聖明王の使いが金銅の「釈迦如来」をもたらしたと伝えられる。また五八四年には百済に渡ったが「弥勒菩薩」石像一体を持ち帰ったとされる。さらに仏教伝来に尽くした蘇我馬子は石川精舎(石川の自宅)の東に仏殿を建て、「弥勒菩薩」の石像を安置したといわれる。物部氏との戦いに勝った馬子が建立した法興寺(飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)が日本最初の仏教寺院であり、聖徳太子は『三教義蔬』を著し「法華経」「維摩経」「勝鬘経」の解説をし、四天王寺と法隆寺を建立した。六四二年には長野の善光寺に「阿弥陀如来」ももたらされている。孝徳天皇時代には仏教は国家鎮護の役割を担い、天武天皇は大官大寺(大安寺)を、持統天皇は薬師寺を建立している。さらに聖武天皇は光明皇后と共に国分寺、国分尼寺を建て、東大寺には大仏を建立した。さらに唐から鑑真が招かれ、唐招提寺も建立された。このような南都六宗の隆盛の中で空海は仏教を学んだのである。したがってかなり早い時期から弥勒菩薩への信仰は育まれていたのであろう。さらに師と仰ぐ先達から「虚空蔵求聞持法」も学んだ。奈良を出奔して行方をましていた時代には、数々の雑密も学んだと思われる。そして七年を経てやっと、仏教こそは最上であるということを、この二書で宣言したのである。

 最上であるがゆえに、そのために生きる以外に空海の生きる術はなかった。ならば「そのために生きる」とはどういうことなのか。「弥勒菩薩」の在す兜率天に向かうことは疑いのない目的ではあるが、どうすればそこに辿り着くことができるのだろうか。一つ一つの智恵は着実に積み上げていってはいるものの、それをどのようにしてこの目的、生き方に繋げていけばいいのか。……そのための方途を彼は未だに見出せずにいた。空海の疑問は広がるばかりであった。

それにしても彼のこの徹底ぶりは何なのだろう。何事も納得しなければ気が済まない。しかも一つ納得すると、さらにその先を掘り下げる。するとまた新しく納得できないことが生じてくる。いつもその繰り返しである。そして仏教が最上であると確信しても、彼は決してこれまでの既成の仏教には満足できなかった。何かが違う、何かが足りない、……。彼は未だに解らないものを探し続けていた。彼は何かに渇いていた。                                                                                   

                                (続く)                                                  

bottom of page