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 第六章 帰国と太宰府時代

 大同元年、空海は高階遠成等と明州を発し、帰途につく。『大師御行状集記』によると

 「唐;元年當ル日本大同元年丙戌八月日、學法得問、五智灌頂兩部大法諸尊、■伽大日金剛頂經等二百餘部、■二諸新譯經論佛像道具等、皆以テ髄身歸朝ス云云、」

と書かれている。

 その他にも『元和郡縣圖志』『高野大師御廣傅』等にも同様に書かれている。

 

 既にその年三月十七日に桓武天皇は崩じられ、五月十八日に平城天皇が即位し、十九日に賀美能親王が皇太弟とされていた。

​ 空海は10月二十二日帰京する高階遠成に託して、新請来の經・律・論および仏像・曼荼羅・道具・恵果和尚付嘱物等の目録「新請来經等目録」を進献した。

 空海はすぐに京に帰ることは許されなかった。それはいくつかの理由があったと思われる。一つには元々遣唐使の定められた年期を破って帰国したこと、もう一つには当時の世情である。

 ただ単に3月17日の桓武天皇の崩御だけではない。

5月18日、平城天皇が即位し、19日、賀美能親王を皇太弟となすも、大同2年(807年)11月12日、伊予親王、藤原宗成の陰謀により、母吉子とともに、翌年川原寺に幽閉されて自害する。

 また大同4年(809年)4月13日、嵯峨天皇即位、翌14日、高岳親王を皇太子となしたものの、さらに弘仁元年(810年)9月10日、藤原葉子、仲成等が上皇の重祚を謀り、9月12日、上皇は剃髪入道し、葉子は自殺する。

​ このように世は乱れに乱れて、当時の政府としても、空海の進献した『御請来目録』も、じっくり読解する間もなかったに違いない。

 空海にとってはすぐに帰京できなかったことは幸いであった。この乱れた世に影響されることなく、そこから距離をおいたところで、自ら学んだ密教の教えを反芻咀嚼し、如何にこの国に合わせた教えとして打ち立てるかということを、あらためて考察する機会を得たと言うべきなのかもしれない。

​ 空海がこの『御請来目録』を進献してから、京へ帰るまでの三年間、どこで何をしたかということは定かではない。わずかに残された文献のなかから探ってゆくより外はないのである。

 ここから先は断片でしかないが、訪れたところの随想として、写真も含めて掲載してゆきたいと思う。今後一つにまとめて本として完成する希望を抱いているが、それまでの覚え書きとして。  

【太宰府】

 大宰府を初めて訪れた時、想像をはるかに超えた広大さに驚いた。それは平城京そのもののように、そこに在った。

​ これまであまりにも都を追われ、流されるようにここへ来た多くの人々のイメージが付き纏っていたのかもしれない。うらぶれた都落ちのイメージとして想像していた。菅原道真しかり、柿本人麻呂しかり。これまでの概念を書き換えるほど、そこは壮大な空間だった。

 大宰府は奈良・平安時代において、外交や軍事を主な職務とし、当時「西海道」と呼ばれた古代の九州を治めた役所であった。

​ 大宰府政庁は大宰府の中心となる建物であり、大宰府の長官である太宰帥(だざいのそつ)が政治や儀礼を行うための場所であった。平城京の配置を手本とした左右対称形となる瓦葺の礎石建物で、築地や回廊に囲まれた南北215.4m、東西約119.20mの規模ということが、発掘調査で明らかになっている。

[最教寺]

​ 車を降りると天にまで届くばかりの大銀杏が眼前にあった。黄金色の葉を止むことなく散らしながら。すぐにその樹の傍らに立ちたい思いに駆られたが、思い直して表参道の方へと歩いて行った。舗装された車道にも、いちめんに銀杏の黄葉が散らばっていた。

 表参道に回ると正面には門はなく、幾つかの黒ずんだ自然石が、無造作に組み合わされて、何段かの石段になっていて、罅(ひび)割れた石の間から羊歯(しだ)や小さな蔓(つる)草があちこちに生えていた。登ったところに台座付きの二本の長方体の石柱が左右に置かれていた。

 向かって右側の石柱には「弘法大師註■霊趾」と彫られ、左側の石柱には「高野山■■■最教寺」と彫られていた。その傍らには橘(たちばな)と八つ手の木があり、その奥には鬱蒼と樫の大木が茂っていた。しばらく歩くとまた、同じように石段があり、その上に中門があった。木造の中門の周りには白壁が続いていた。中門の右側には「談議所最教寺」の木の札が掲げられ、左側には「最教寺霊宝館」の札があった。

 境内に入ると右側には鐘楼があり、傍らには白い花弁にうっすらと紅に染まった椿の花が咲いていた。

 正面が本堂で、その右側には愛染堂があった。硝子戸越しにお参りすると、真っ赤な愛染明王のお姿があった。

 本堂の向かいには霊宝館があり、中には重要文化財の涅槃(ねはん)の釈迦如来が在すはずだったが、あいにくその日は霊宝館は閉館で会えずじまいだった。

 そこから更に緩い上り坂を歩いて行くと奥の院である。奥の院への道は四国八十八か所を模していて、道の両側には各寺のご本尊である如来や菩薩の像が鎮座しておられる。赤い前掛けをほとんどの仏さまがしておられたが、時折その布が取れて、石像そのものが真っ赤に染まっておられた。緩やかに曲がりながら山道を歩いてゆくと、黄葉、紅葉の鮮やかさ。あるいはところどころ、ピンクや赤の落椿が道道を飾っている。

 そして上り切ったところに広いスペースがあり、青い空に白い雲が流れて、その前に不意に真っ赤な三重塔が現れる。塔の前にも大きな白椿の木があった。

 三重塔の御本尊は不動明王であったが、秘仏で参拝は叶わず、塔の前には大きな石のレプリカがあった。

 塔の横に黒い石が置かれていて、その前に「西高野山奥之院」「弘法大師坐禅石」と刻まれている。

 おそらくは空海が此の寺に足繫く通って来た頃は、これらの立派な御堂は一つもなく、もしあったとしても鄙(ひな)びた木造の小さな御堂だけだったであろう。

 そしてこの大きな樹々が生い茂り、その中にあった石に坐って、虚空蔵求聞持法を修したのであろう。

 あるいは後に日輪観、月輪観と称されたように、昼は陽光が燦燦と輝くなかで、夜は月光の静けさのなかに、ただ坐って、自らを同化させていったに違いない。

​ 

 若い頃山野をさまよって修業した、故郷の四国の山を彷彿させる懐かしさを、この寺は空海に蘇らせたのであろう。

​ そのような思いを初めて訪れたこの最教寺は、抱かせるに十分な静謐を今も残していた。

 最教寺を出る時は、入った表参道を通らずに、あの大きな銀杏の樹の横を歩いた。土の色が見えないほど黄葉の落葉が埋め尽くし、それでもなお丈高いその樹には、半分ほど葉が残っていて、風が吹く度に辺りに散らし続けていた。(了)

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